豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた巨大な城、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ規模を誇り、全国から約160家の大名・武将が名護屋に集結しました。周囲約3キロメートルの中に150以上の陣屋がおかれ、最盛期には20万人以上もの人で賑わい、日本の政治、経済、文化の中心となった名護屋。しかし、名護屋城が使われたのはわずか7年と短く、秀吉の死によってその野望は夢と散りました。430年余の時を経て、今なお当時の面影を残す名護屋の魅力をご紹介します。
肥前名護屋城跡
五重七階の幻の名城、肥前名護屋城
玄海灘を望む気持ちのいい高台にある名護屋城の天守台跡。名護屋城は、築城の名手と言われた加藤清正、黒田長政、寺沢広高らが役割を分担し、突貫工事の末なんと約5ヶ月という短期間で築城されました。ここには、五重七階(地上6階、地下1階)、高さ25m〜30mの天守がそびえていたと伝わっています。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡は国の特別史跡に指定されています。
天守台まではゆるやかな坂道を登り緑豊かな森を抜けるウォーキングにぴったりの道のりです。時間があれば、地元のガイドさんが要所を案内してくれるガイドツアー(一人200円、要予約)に参加してみてはどうでしょう。現在は苔むした石垣が残る名護屋城跡ですが、詳しい説明を聞くことで、秀吉が生きた古の名護屋をより身近に感じることができるかもしれません。
更に名護屋城をリアルに感じたい方はアプリ『バーチャル名護屋城』をダウンロードしましょう。城内に足を踏み入れた瞬間、VRで再現された当時の門や石垣、建屋がドドーンと出現!改めてその広大さを感じることができます。名護屋城博物館ではタブレットの無料貸し出しを行っています。(ご自身のスマホ、タブレットを使用される場合は、名護屋城博物館でのチェックインが必要です。)
天守台に着くと、立派な天守閣が現れました。ここからは、かつて秀吉と大名たちも眺めた玄界灘のパノラマが広がります。日本の長い歴史の中でも、かつてこれほど多くの武将が一同に集結した城や陣跡はないと言われています。秀吉が天下人としていかに強大な力をもっていたかがうかがえますね。では次は、名護屋城について知ることができる、名護屋城博物館へ向かいましょう。
佐賀県立名護屋城博物館・名護屋城跡
名護屋城博物館
朝鮮半島との交流の歴史を展示 名護屋城博物館
名護屋城のことが少し分かってきたら、更に知識を深めるべく名護屋城跡に隣接する佐賀県立名護屋城博物館へ行ってみましょう。こちらは、国の特別史跡に指定されている名護屋城跡と陣跡の保存整備と、日本列島と朝鮮半島の交流の歴史を紹介しながら、日韓の交流拠点となることを目的に平成5年に開館しました。
展示フロアの正面には、名護屋城と城下町の復元模型が展示され、先程見た名護屋城跡をより身近に感じることができます。常設展示は、古代から近代までの日本列島と朝鮮半島の交流の歴史をテーマに、名護屋城以前〜名護城時代〜名護屋城以後に時代を分け、わかりやすく展示されています。名護屋で花開いた桃山文化や出兵後に日本にもたらされた文化についても紹介されています。
文禄・慶長の役の際に使われた日朝両軍の軍船「安宅船(あたけぶね)」と「亀甲船(きっこうせん)」を10分の1のサイズで復元したもの。戦闘的な印象のある朝鮮水軍の亀甲船に対し、安宅船は豪壮で優美な印象があり、とても対象的です。ずいぶん違いますね。
こちらは豊臣秀吉から徳川家康にあてた書状です。九州平定後の細かな指示と共に家康へ大陸侵攻の構想を伝える内容となっています。当初、秀吉は拠点を名護屋ではなく博多と考えていたことが分かる貴重な資料です。他にも、秀吉がおね(北政所)にあてた手紙なども展示され、筆まめで人たらしと言われた秀吉の人柄が伝わります。
当時、名護屋城内や大名の陣屋では、絢爛豪華な桃山文化の粋が集まり、能や茶の湯が連日のように催され、名護屋は文化、芸術の発信地となっていきます。
しかし一方で、戦場では多くの人々が犠牲となったことも忘れてはならないでしょう。
また、侵攻の中、朝鮮半島から多くの陶工が日本で連れてこられました。諸大名お抱えとなった彼らの手によって、唐津焼や有田焼などが誕生し、日本の焼き物文化は画期的な飛躍をとげることとなります。このように日本に移入された文化はその後、近世の日本に大きな影響を与えていきます。それでは、次は桃山文化の象徴『黄金の茶室』へ向かいましょう。
黄金の茶室
秀吉は“金”使いが上手かった⁉黄金の茶室
お待ちかね『黄金の茶室』にやってきました。暗闇の中、まばゆい光を放つ圧倒的な存在感!これを見た430年前の人は本当に驚いたでしょうね。当時の茶室は組み立て式で、秀吉が名護屋に着陣した際に大坂城より運び込まれたと伝わっています。名護屋城博物館では2022年3月より一般公開され、茶室内で実際にお抹茶をいただけるイベント(不定期・事前申込・有料)も開催されています。
床や壁だけでなく、茶道具まで金ピカ!史料によると、当時も茶せんと茶巾以外はすべて金だったのだとか。黄金の茶室が作られたこの時代は、日本の金の産出量が飛躍的に増えた時期でもありました。名護屋城跡からは金箔の付いた瓦なども出土しています。
名護屋城博物館の『黄金の茶室』には、文化財修復にも使用される純度の高い金箔を使用し、ほとんどの箇所でより金箔の美しさを最大限にいかすことのできる2枚押し(2枚重ね)が採用されています。
秀吉は自らの権力を誇示するために“金”を巧みに用いた人物としても知られています。この『黄金の茶室』も日常的に使われていたものではなく、天皇や公家、大名、外国の使節などに対し、政治や外交上の重要な場面でのみ披露されたのだそうです。秀吉にとって『黄金の茶室』は、ここぞと言う時に、権威と財力を見せつけ、相手を圧倒させるための「伝家の宝刀」だったのかもしれません。
佐賀県立名護屋城博物館・名護屋城跡
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